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名古屋地方裁判所 昭和30年(わ)1004号 判決

被告人 福田武二郎

主文

被告人は無罪。

理由

第一、公訴事実

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、名古屋市警部補として、昭和二十五年五月一日より昭和二十七年一月二十三日まで、名古屋市警察本部捜査課に勤務し、同課強行犯係主任を命ぜられて警察吏員としての職務を行つていた者であるが、名古屋市南区大同町二丁目二千二百八十七番地に居住する隠岐尚一が、昭和二十六年十一月七日名誉毀損被疑事件の被疑者として逮捕され、同市警本部に連行されるや、上司の命によつて同人の取調を担当することゝなり、(一)同月八日午前九時半頃から午後三時頃迄の間同本部階下休憩室で同人を取調べたが、その際同人が長時間にわたる被告人の説得にもかかわらず黙秘権を行使して被疑事実について何の供述もしないばかりか、反抗するような態度にでたため、その態度に憤慨し「捜査課の強行を知らぬか、毎日毎日強盗や殺人犯人を相手に仕事をしていて貴様のような若僧になめられてたまるか」といいながら、十回位同人の頭髪を掴んで引つ張り、(二)ついで、同月十日午前九時過から午後四時頃迄の間前同所で同人の取調にあたつたが、同人が前回の取調のときと同様黙秘の態度を改めないので、「貴様がどうしてもいわぬなら、貴様が死ぬまでやるがどうだ。俺の命は兵隊で一度捨てた命だ、貴様を殺して俺も死ねば戦友に対しても顔向けができる。」といいながら、正座させた同人のひざのうえを両足でふみつけ、頭髪を引つ張り、さらに「これでもいわんか。鶏のように首をひねられにやわからんか」といいながら同人の着用していたジヤンバーの襟元を両手で掴んで頭部を絞めつけたり脚で胴を絞めつけたりし、以て同人に対し暴行を加えたものである。」というのである。

第二、証拠の有無

本件各証拠によれば、被告人が昭和二十六年十一月八日および十日名古屋市警察本部別館階下玄関脇の宿直室(休憩室)において、隠岐尚一を名誉毀損被疑事件の被疑者として取調べたことは明かであるが、その際同人に対し公訴事実のごとき暴行を加えたことはこれを認めるに足りる証拠がない。

被告人が隠岐を取調べたその経過の概略は次のとおりである。

隠岐は同月七日(以下特に断らないかぎり月日は昭和二十六年を指す)朝、前記同人方において、いわゆる松川事件の第一審裁判長判事長尾信を誹謗した事実を印刷したビラを他に配付したという嫌疑で名古屋市警察吏により家宅捜索されるとともに逮捕され、同市警察本部(以下単に市警本部という。)に引致された。宿直室或は休憩室とも称する玄関脇の部屋で被告人より右事実について弁解を録取されたうえ、同本部捜査課留置場に留置された。翌八日被告人の取調を受け、同人の署名押印のない供述調書が作成され、同日検察庁に送致された。同月九日は勾留質問のため、裁判所へ連れられ、被告人からの取調はされなかつた。引続き右留置場に勾留されることとなり、同月十日右宿直室において八日と同じく被告人から取調べられ、その結果右ビラ配付の事実を自供し、その旨の供述調書が出来た。同月十一日、十四日と市警本部の一室において取調に当つた検察官に対しても自供し、十四日午後身柄を名古屋拘置所へ移された。その後数回検察官の取調があつて、同月二十六日当庁に起訴されたものである。

取調の経過は右のとおりであるが、本件各証拠中被告人からの暴行の事実があつたという証拠は、隠岐尚一の供述のみで、これを裏付ける証拠として、渡辺利雄の供述および証人桜井紀の供述がある。これらの供述がどの程度信用するに足りるものであるかが、本件の結論を左右することとなる。そこで以下において、当裁判所としては、隠岐の供述に全面的に充分な信用を措くことができなかつた所以を説明する。

第三、暴行ありとの証拠

一、隠岐尚一の供述

本件告訴状添附の同人作成の手記、同人の検察官に対する昭和二十七年二月二十日付供述調書、同人の昭和二十九年五月八日付証人尋問調書、昭和三十年四月七日付証人尋問調書、第一回公判調書中の証人としての供述記載および第十五回公判調書中の証人としての供述記載によると、同人の供述する被告人の取調状況は次のとおりである。

すなわち、「同人は十一月七日市警本部休憩室で、被告人より最初の取調を受けたが、名前も何も述べなかつた。両手錠がかけられたままで取調が始められたが、その途中で、被告人に対し、手錠をはずしてくれと要求したら、両手ともはずしてくれた。この日の取調は一時間位で済んだ。

同月八日は午前十一時頃から前日と同じ部屋で、被告人と補助者一人(笛木巡査部長)によつて取調が行われた。休憩室は畳敷で、座机を間に挾んで被告人と対座し、笛木巡査部長は被告人と並んで座つたり、机の横に座つたりしていた。手錠は両手にかけられその綱の一端を被告人か笛木巡査部長が手に持つていたり、机の足に縛りつけたりしたが、大体は机の足に縛つていた。取調は、隠岐と被告人との間に、『昨日は君が手錠をはずして人間的な取扱をせよと云うから、手錠をはずして君の云うとおりにしたのになぜ黙つていたのだ。昨日は最初の日だから許してやつたが、今日はそうはいかんぞ。』『昨日は僕は黙つてなどいない。理由がないからすぐ釈放せよといつたではないか。今日はまだ手錠もはずさぬではないか。』というような言葉のやりとりで進められていつた。そのうち、被告人は『こんな机があつては話ができぬ。膝を交えて話そう。』と云つて、座机を部屋の隅にのけ、『いい加減に話をしたらどうだ。名誉毀損なんてたいしたものではないんだから、本当に長尾さんには申訳ない悪いことをした、二度とこのようなことはしません、と君が言いさえすれば検事さんも人間だからそれ程ひどいことはしないんだ。僕の方からも検事さんに何とか頼んであげるから、そうすれば起訴されずに家へすぐ帰れるんだ。』と言つても同人が何も言う必要がないとつつぱねると、『これだけ言つてもわからんのか。貴様に必要がなくともこつちにあるんだ。俺がおとなしくしておればいい気になりやがつて、捜査課の強行を知らんか。毎日毎日強盗や殺人犯人を相手に仕事をしておつて、貴様のような若僧になめられてたまるか。』と言つて、被告人は同人の頭の毛を引張りまわした。すると、笛木巡査部長が『そんなことばかり言つておらずに謝れ、謝れ、早く謝らんか。』といつて隠岐尚一の頭の毛をひつぱつて頭を畳に叩きつけたり、手錠の綱を引張つたりした。そのほか、被告人は同人のこめかみにげんこつを押付けたり、同人のジヤンバーの襟をつかんで首をしめたりして、『これでもか、これでもか。』と同人を責めたてた。この間が一時間位あつて、同人が本籍住居も述べなかつたので、被告人は、同人の家から押収してあつた同人の履歴書を持つて来て、本籍、住所、氏名を調書に書き入れ、同人に署名を求めたが、同人が、調書には言わないことが書いてあるからそれを抹消しなければ署名しないと、これに応じなかつたところ、被告人より再び前のような暴行を繰返された。そうこうするうちに、何処からか、すぐ調書を送つてくれと催促して来たので、被告人は同人が署名に応じなかつた旨後書きして署名し、同人に『今日は仕方がないからこれで止めるが、貴様のカタが直るまで、しつかりヤキを入れてやるからその積りでおれ。それまで絶対に拘置所へも送らんからな。』と云つてここで取調は終つたが、その時刻は午後三時頃だつた。

同月十日は午前十時前後から、八日と同じようにして被告人と笛木巡査部長とで取調が始まつた。被告人は、『君ももう三日も入つておるのだから少しは考えたか。長尾判事の問題については田中最高裁判所長官も非常に心をいためてみえるんだし、僕も上司からこの問題だけは徹底的にやれと命令されているんだから、言わないなら言うようにしなければならん、今日はいつまでもやるからそう思え。』『貴様がどうしても言わんようなタマなら貴様が死ぬまでやるがどうだ。嘘じやないぞ。俺の命は兵隊で捨てた命だ。今おめおめ生きているのが死んだ戦友に対して申訳ないと思つている位だ。貴様を殺して俺も死ねば戦友に対しても顔向ができる。家族のことは俺が社会正義のために死んだといつて、少くとも全国の警察官だけは、何んとかして面倒を見てくれる』と言うようなことを言い、さらに『これでも云わんか、鶏のように首をひねられなければわからんか。』と隠岐尚一に八日行つたような暴行を加えたほか、同人が正座している膝の上に乗り、足踏したり、同人の頭の毛をつかんで後に押え付けたり、笛木巡査部長が手錠の綱を引張つて隠岐を動けぬようにして後に倒し、被告人が同人を足で胴締にしたり、気を失わぬ程度で背後から片腕を同人の首に巻いてしめ上げたりした。そうして、『どうだ、これでも言わんか。』『あのビラはお前の家で作つたんではないだろう。どこで誰と作つた。早く言わんか。』と迫り、同人を胴締にしながら同人の首もしめることが長時間に及んで、同人は四回も気絶した。同人が気がついて起き上ると、被告人らは、こんなことですむかと、また同人をひつくり返して同人の首や胴をしめつけた。そこで、同人は身体も頭も変になり、何時迄も強情張つているとひどいことをされると思つて、事実について被告人に話をした。供述調書に同人が署名して留置場へ入れられたのは午後四時過であり、昼食は被告人が生意気言うなと食わせなかつた。

被告人より右のような暴行を加えられたため、同人は頸すじのところが赤く腫れ上つたり、左の肩の筋肉が痛んで当日は眠られず、三、四日位体中が痛んだ。

被告人の暴行については、隠岐は同月十日房室へ戻ると、同房者の渡辺利雄に被告人から拷問を受けたと話し、頸すじのところを見て貰つた。この日は渡辺利雄以外に同房者はいなかつた。また、同月十一日か十二日市警本部の一室で弁護人桜井紀に面会し拷問されたことを話した。」というのである。

以上は、主として、隠岐尚一が最も記憶の新しいうちに作成したものという(同人の昭和二十九年五月八日付証人尋問調書、第二回公判調書中の証人としての供述記載)前記手記を要約したものであるが、被告人の取調中の言葉など詳細かつ具体的に記され同人が被告人の取調に対し、ことごとに反撥し抗う態度に出たため、被告人が腹に据えかねて、同人に暴行を加えて自白を強制したかのように一応は人を首肯かせるものがあるように見える。

しかしながら、同人の供述を仔細に検討すれば、

(1)  被告人が、十一月十日隠岐に吐いた言葉の中、同人を殺して被告人も死ぬ旨の脅迫的言辞や同人が四回も胴締されて気絶したなど、あまりにも異常で同人の供述調書の内容と比べ、筋のとおらないもので、たやすく信を措き難いものがある。

(2)  次に、被告人は取調に当つて大声は出さず、平常な普通の声であつた(証人隠岐の第十五回公判調書中の供述記載)というのも、被告人が感情的になつて脅し文句を吐いていたということとそぐわないことである。

(3)  また、被告人が同人に暴行を加えている最中に、休憩室に入つてくる者があり、被告人は驚いて同人から手を離していたという同人の手記が事実だとすれば、右部屋に入つて来る者は警察内部の一部の者にかぎられると推認されるので、被告人はそれらの者に対しても暴行の事実を秘しようと気を使つていたといわざるを得ないのに、当時市警本部留置場に留置されていた三国喜久男に、隠岐に暴行を加えたと話したという手記の記載は理解するのが困難なことである。実際証人三国喜久男の供述によるも被告人が隠岐に暴行を加えた事実は認められない。

(4)  証人隠岐の昭和二十九年五月八日付証人尋問調書において、同人は、裁判長から「相手のもう一人の巡査部長は暴行しなかつたか。」と尋ねられて「その日は何もしなかつたと思います。」と答えているにも拘らず、重ねて「頭を畳に叩きつけるというようなことはなかつたか。」と問われ「そういうこともありました。」と肯定し、続いて、問「謝れと言つたことは。」、答「もう一人が福田警部補に謝らせるために言つたのです。」、問「それからその巡査部長が証人のこめかみを押えつけるということをしなかつたか。」、答「そういうこともありました。」、問「それは頭を畳に押えつけてからか、どういうはずみからしたのか。」、答「その点記憶ありません。」という問答が行われているが、その他十一月八日の署名拒否と暴行との前後についての問答、渡辺利雄に暴行の事実を話したことについての問答をみるに、同人が告訴した事柄の重要な点に関する、しかも同人にとつて極めて特異な経験に属することについて、未だ比較的年月を経過していない時期における供述としては力が弱く、説明的な問に対し肯定する程度の消極的なものが看取される。

(5)  さらに、隠岐の、被告人の取調を受けてから、本件告訴までの経過をみるに、同証人の第二回公判調書中の供述記載、検事本多久男作成の回答書、証人本多久男の第四回公判調書中の供述記載によると、隠岐尚一は同検事より十一月十二日、十四日、十六日、十七日と五回にわたり名誉毀損被疑事実について取調を受けているが、被告人の暴行については何も訴えていないことが認められる。これについて、隠岐は、右供述記載において、検察官にしても警察官にしても似たようなもので、警察官がすることは検事がするも同じことと考えていたので、何も話さなかつたと供述するけれども、証人桜井紀の供述(第五回公判調書)によれば、十一月十三日市警本部で隠岐と面会し、警察官の拷問を聞いたとあり、もつとも面会の日については名古屋拘置所長作成の在監者の動静に関する照会についての回答と題する書面により十一月十七日午後零時から零時三十分頃まで、弁護人桜井紀と隠岐とが面会し、その時はじめて暴行されたと話したと認めるのが、「愛国者隠岐君をゴウモンから救おう」と題するビラが配付された事実によつて、正当と思料せられる。この弁護人の話したことを取調に当つた検察官に訴えずに被告人に対して為した自白と全く同一の自白をしたのは甚だ諒解し難いところである。隠岐と同時頃逮捕勾留された共同被告人は否認しているのに、隠岐だけ自白したことに同人は責任を感じ、弁護人に対し虚偽の事実を述べ拷問を訴えたものと思料される。

(6)  隠岐は、被告人の名前は、被告人が取調に当つて名乗つており、取調最中に休憩室に入つて来た人が被告人の名を呼び、また被告人が目の前で供述調書に署名したので知つた(同人の右検察官に対する供述調書)というのであるが、同人の第二回公判調書中の証人としての供述記載右証人本多久男の供述記載によれば、隠岐は十一月二十四日検察官より本件について供述を求められ、警察で取調中暴行されたことは陳述しながら、被告人から暴行を受けたとは言わなかつたことが認められる。同人が被告人の名前を失念していたというのも、暴行を加えた被告人の名前を旬日を幾らも出ないうちに忘れるとは思えないし、右証人本多久男の供述記載によると、右取調中に被告人の名前は現われていることが認められ、結局隠岐はことさらに被告人の名前を口にするのを避けていたといわなければならない。

これらの諸事情は、隠岐尚一が現在名誉毀損被告事件の被告人として審理されていて同人の供述調書の証拠能力が重要視されることから見て、同人が本件被告人の取調中の行動についての供述の信憑力に疑念を懐かさしめるものであり、本件について証明ありとするためには、右疑念を打消して、右供述を裏付けるに足りる証拠が存在することが必要である。そこで、次に渡辺利雄および桜井紀の供述が右裏付証拠たり得るか否かについて検討する。

二、渡辺利雄の供述

同人の供述の要旨は、「十月二十七日窃盗現行犯で逮捕され、市警本部捜査課留置場に入れられ、十一月十四日午前九時半頃、そこから名古屋拘置所へ移された。留置場では、第三号から五号(同人が四号というのは検証調書により五号の誤りであることは明白である。)再び五号から三号へと房が変つた。三房には前後一週間位居た。三房では隠岐尚一と同房だつた。そうして拘置所へ移監になる二、三日前からは、同房者は同人一人であつた。

同人は毎日のように取調を受けていた。取調から帰ると同人は取調係官から暴行されたと話していた。一遍は、遅く、晩になつて顔を真青にして房に戻つて来たので、訳を聞くと、同人は係官から首をしめられ四回も気絶して休んでいたので遅くなつたと言つて、その肌を脱いで肩を見せた。見ると、同人の頸すじのところが赤く腫れていた。同人からこのような話を聞いたり、身体を見せられたりしたのは、同人と二人だけが房に居る時だつた。」というのであるが、渡辺利雄の供述としては、同人の検察官に対する供述調書(昭和二十七年三月十四日)、検事宿利請一作成の回答書、証人渡辺利雄の昭和二十九年九月九日付証人尋問調書、第三回公判調書中の供述記載(昭和三十一年九月二十五日)、第十四回公判調書中の供述記載(昭和三十二年九月十九日)におけるものがあるが、諸点においてその供述するところが変転して前後矛盾すること多く、先の供述を、後の供述で否定するようなことがあつても、その内容を確定することは困難であるばかりでなく、右要約したいわば大筋とみるべき幾つかの点においてすら、隠岐尚一の供述と食違いをみせている。

(1)  渡辺は、隠岐と同房している間、毎日のように取調から帰えると、渡辺に取調係官の暴行を話していたと供述しているのであるが、隠岐尚一の供述によればそれは十一月十日の一回に過ぎない。(隠岐は、第二回公判調書中の供述記載において、十一月八日にも同人が暴行を受けたとだけ渡辺に話したと供述しているがそれ以前に録取された隠岐の各供述によれば右八日のことは、忘れていたためでなく、否定する意味で供述していないことが認められる。)

(2)  隠岐は、同人が被告人の取調を受けて房へ戻つたのは同月十日は午後四時頃であり、晩になつて帰つたことはないということを一貫して供述している。

(3)  渡辺の供述によると、隠岐は気絶したことも、加えられた暴行の詳細についても話し、肌を脱いで肩を渡辺に見せたというのであるが、隠岐の供述によるとこれらは否定されなければならない。(なお、隠岐が、渡辺に身体を見て貰つたという供述をしたのは、証人隠岐の昭和三十年四月七日付証人尋問調書に至つてであり、前記同人作成の手記において、同人が渡辺に聞かれて拷問されたことを話したとありながら、一言もこの事実に触れていないのは、右手記が未だ記憶に新しい時期に作成されたものであり、右事実が記憶に残り易くかつ重要なものと考えられることに照らせば、当時忘却していたとも認め難いのであるが。)

(4)  証人渡辺利雄の供述によれば、隠岐の頸すじのところに直経約一糎位の大きさに赤くなつていたというが、隠岐の供述のような暴行が真実あつたとすれば、右のような小さい赤発位ですむのが首肯し難いものである。

これらの食違いは渡辺利雄の供述の信憑力を低めるものであるが、次に他の観点から検討することとする。

三、同房者の有無

隠岐尚一が取調から房に帰えつて身体を渡辺利雄に見せたとすれば、狭隘な房室内でのことであるから、他の同房者は当然これに気付かなければならない。右両名はこの点、その日は他に同房者は居なかつたと供述していること前記のとおりである。そこで同房者有無についてここで考究してみることとする(身体を見せたという日に他の同房者が居たか否かを確定できれば話だけをしたこともあるという供述の信憑力も自ずから決定されると考えられるので、見せた日という十一月十日に焦点を絞つて考察する。)

(1)  愛知県警察本部捜査第一課長作成の留置人氏名及び留置期間の調査と題する書面、名古屋拘置所長作成の照会の件について回答と題する書面、留置人所持金保管簿(証第三号)、および昭和二十六年度留置人給食日計簿(証第七号)によれば、関係各証人が市警本部捜査課留置場に留置されていた期間は、それぞれ、次のとおりであることが認められる。

中村長兵衛が十月二十四日から十一月十九日午前九時五十分頃まで、

藤沼恒次が十月二十五日から十一月十日午前九時五十分頃まで、

渡辺利雄が十月二十七日から十一月十四日午前八時四十分頃まで、

筑田忠夫が十月二十九日から十一月九日午前十時三十分頃まで、

西沢竜三が十一月五日から同月十三日午前八時四十分頃まで、

隠岐尚一が前記のとおり十一月七日から同月十四日午後四時頃まで、

(2)  隠岐が右留置場に留置されている間、終始第三号の房室に居たことは関係証拠(証人藤沼恒次の第十七回公判調書中の供述記載を除く。)に徴し、動かし得ないところである。また、十一月七日三房の入房者が、中村長兵衛、西沢竜三、渡辺利雄、筑田忠夫、隠岐尚一の五名であることは、証人中村長兵衛の第六回および第十六回公判調書中の供述記載、同西沢竜三の第十八回公判調書中の供述記載、渡辺利雄の検察官に対する供述調書、証人筑田忠夫の第十一回公判調書中の供述記載、隠岐尚一の第十五回公判調書中の供述記載および司法巡査大橋保正作成の調査方照会の件復命と題する書面により明らかである。

(3)  右認定事実に照して関係各証人の各供述を審査するに、証人隠岐の右供述記載によると、中村は十一月八日三房から出て行き、代りに藤沼が入つて来たことになり、また同人は西沢とは三日間、筑田とは四日間同房していたと供述しているが、同房日数が事実に反し、中村と藤沼とが入れ替つたことについては、隠岐の右供述記載および同人の他に供述しているところにみても、同人が房番号、同房者名等については明確な記憶を保持していないことを窺い知ることができるので、中村は移監されるまで三房に入つて居たという、証人中村および証人西沢の右各供述記載における供述の方がより信頼できる。もつとも、中村に対しては、十一月八日付の勾留状が存在するが、証人宮川照夫、同井上元市の各第十八回公判調書中の供述記載によると、そのため中村が同日転房したことは認められない。証人藤沼の第十回および第十七回公判調書中の供述記載によれば、同人は第二房から隠岐の入房していた房へ転房になつたことになるが、その折同房者は隠岐以外には宮地藤吉があつただけといい、他の証拠により認められる事実と抵触し、証人渡辺の第三回および第十四回公判調書の供述記載によると、同人は三房、五房、三房と変り、五房の時、藤沼と西沢とが一緒に居たことになるが、この両名が同房したことのないことは、両名の供述するところであるばかりでなく、渡辺が右において述べるがごとく、最後に三房で隠岐と三日位居り、四房で西沢とも三日位同房していたとすれば、十一月八日も十日も隠岐と同房していなかつたことに帰する。また、右司法巡査作成の復命書には、十一月十日以降三房には隠岐、渡辺の二名しか入房していないように記載されてあるが、証人大橋保正の第十三回公判調書の供述記載によつても、これが決して誤りのない絶対的のものと認めることはできない。要するに、中村長兵衛と西沢竜三が拘置所へ移されるまで三房に居たことは肯認されるといわなければならず、さらにその一方が取調に出る時は他方の者が房におりながら、隠岐が渡辺に頸すじを見て貰つたところを見ていないことも認められる。

そうすれば、渡辺の前記供述はその信憑性を欠き、隠岐の供述を支えるものたり得ないことになるのは明らかである。

四、桜井紀の供述

証人桜井紀の第五回公判調書中の供述記載によれば、同人が勾留中の隠岐尚一と面会した際(同人に接見した最初の日は、前記のとおり名古屋拘置所長作成の在監者の動静に関する照会についての回答と題する書面、三輪晴および浅野晃盛の各弁護人選任届愛国者隠岐君をゴウモンから救おうと題するビラを綜合して判断すれば十一月十七日であると認められる。)、同人から警察での取調中に暴行を受けたと聞いたことは首肯できるが、桜井の、隠岐はその際腕か手を見せたが腫れていたように思う旨の供述は、隠岐が腕や手が腫れていたということは何処にも述べておらず、また、それを桜井に見せたとは供述していないところからして、到底首肯できない。隠岐が弁護人である桜井に暴行されたと云つたのは、前記のとおり隠岐において被告人に自供したことを恥じて虚構の事実を話したものと思料されるが、右のように単に話だけをしたものであれば、これを覆えし、さらに、前記隠岐の供述の信憑力を弱める諸事情を打消し、両人の供述を裏付けるだけの価値があるとすることはできない。

第四、暴行なしとの証拠

一、被告人の弁解および笛木四方作の供述

(1)  被告人の検察官および裁判所に対する各供述調書、被告人作成の事実上申書および昭和三十三年七月一日付上申書、被告人の第二十二回公判調書中の供述記載および当公廷における供述、愛知県西警察署長作成の警部補福田武二郎の身上記録と題する書面により、被告人の主張を要約すると次のとおりである。

「被告人は昭和十一年愛知県巡査を拝命し、以来昭和十七年四月から昭和二十一年五月までの応召中を除き警察官としての職務に従事し、昭和二十五年五月一日から昭和二十七年一月二十二日まで市警本部刑事部捜査課に勤務し、強行犯主任をしていた。

昭和二十六年十一月七日捜査課次席近藤寛より隠岐尚一を取調べるよう命じられるとともに、慎重にやるよう注意を受けた。同本部階下宿直室において同人を取調べ、弁解録取書を作成した。同人は非常に興奮しており、手錠をはずせと要求したので、取調に矢野巡査部長外一名が立会つていたので、はずしても逃走のおそれはないと思つて、言うとおりはずした。

同月八日は、午前十時半頃から右宿直室において近藤次席の取調は立会をつけるようにとの注意に従つて巡査部長笛木四方作を立会わせて隠岐の取調を始めた。同人を片手錠にしてその端を座机の脚に結び座机を間にして隠岐と対座し、笛木巡査部長は被告人の脇に座つた。被告人が隠岐に本籍、住所等の先問事項を問うても同人が答えなかつたので、前日同人の家から押収して来た同人の履歴書を取り出して来て、本籍、住所から学歴、家族関係等を次々と尋ねたら素直に申立てた。同人は被疑事実を否認し、共産党との関係については『共産党には入党して居ないがその主義主張には共鳴している。』旨述べ、次に、松川事件の判決の何処が不当かと聞くと『とにかく長尾判事の判決は人道を無視した不当な判決だ』と申立てたので、そのように調書に録取した。その調書を同人の要求により閲読させたが、同人は、右共産党云々の項と松川事件云々の項の二項を抹消しろと要求した。被告人は、同人に対し、同人の言つたとおりを書いたのだからと言つて応じなかつたところ、同人は署名指印を拒絶した。種々説得したが、同人が拒み続け、送致する必要上もあつてそのまま取調を打切つた。午後零時半か遅くとも一時であつた。被告人はこの日の取調では大声さえあげず、同人には取調中自由に煙草を吸わせ、また、差入れのシヤツを着せたり、キヤラメルを食べさせたりした。それから、宿直室は当時捜査課公廷係の脱衣場を兼用していたのでその係巡査が出入したり、当時被告人が捜査指揮をしていた暴力団関係の被疑者の余罪捜査について部下数人が被告人の指揮を受けに出入りしていたものである。笛木巡査部長が隠岐に暴行をしたこともない。

同月十日午前十時半頃から、八日と同じ部屋で、笛木巡査部長を立会せて隠岐の取調を始めた。手錠は片手錠で、その端はやはり座机の脚に結んだ。同人は勾留の期間について被告人に聞き、同人としては勾留になつたのが案外であつたという風に思われた。同人にはこの日は、これまでと異つて非常に明朗さがあり、午前中は世間話や同人の家庭のことを話題にした。昼食は部屋に同人の弁当を持つて来させて、食べさせた。午後は、中共軍の人心把握のうまいことや、同人の父親が共産党を嫌つているというのに同人がそのような人と交るのは親不孝ではないかというような話をし、同人からビラを貰つた者の上申書を示して、素直にありのままを話すように説いたら、同人は涙を流して自供した。その時刻は午後二時頃だつた。取調は午後四時頃終つたが、笛木巡査部長は終始立会つており、被告人の話の切れ目切れ目には隠岐に対し素直な気持になつて話したらどうかと口を挾んでいた。

この日も宿直室には部下が捜査指揮を受けに出入りしており、被告人が隠岐に対し、暴行を加えるなど絶対にあり得ないことである。被告人は柔道は四級で、胴締の術も、蘇生の方法も知らない。同日付の供述調書に立会人の署名がないのは、取調が和かに進み、自供をしたので、その必要がないと考えたからである。」

被告人の右弁解によれば本件公訴事実は存在しないこととなる。そして、被告人の供述するところも相当詳細かつ具体的であり、隠岐が自白するに至つた過程にも不自然なものは感じられない。殊に、同人の家庭の内情、父親のことなどは険悪な雰囲気の内で話せることとは思われない。

(2)  被告人の取調に立会い、隠岐の供述によれば、被告人と同様同人に暴行を加えたという笛木四方作が、検察官に対する供述調書、昭和二十九年十二月十六日付証人尋問調書、第七回公判調書中の供述記載において供述しているところも、被告人の供述と同内容であり(笛木の右検察官に対する供述調書において、同人が十一月八日の取調は午後五時頃までかかつたと述べているのは、被告人の裁判所に対する供述調書によれば、通常逮捕手続書記載の送致時刻が同日午後四時になつていることからして記憶違いであることが分る。また、同人は、そこにおいて、同月十日は午後二時までしか取調に立会つていなかつたと述べているが、隠岐が自供し始めたその時以後暴行が行われるはずはなく、同人も暴行はなかつたと供述しているのであるから午後二時以後のことについては重要な意味を有しないことである。)、被告人の供述についてと同様なことが言える。

さらに、右被告人らの供述を支える次のような諸事情がある。

(3)  証人近藤寛の第十二回公判調書中の供述記載によつても、被告人は隠岐の取調に先立つて慎重に行うよう注意を受けておることが認められ、思想的な背景もあつて被告人が同人の取調に慎重な態度で臨んだということは首肯できる。

(4)  被告人は柔道はいわゆる警察四級である、と供述するが、証人戸田十四男の第九回公判調書中の供述記載、同神谷利正の第十二回公判調書中における供述記載によれば、気を失つた人間を蘇生させる方法は柔道三段以上でないと修得してなく、被告人は到底その域に達していないことが認められる。

(5)  証人本多春男の第八回公判調書中の供述記載、同三浦吉喜および同戸田十四男の各第九回公判調書中の供述記載によれば、被告人が隠岐を取調べている様子に別段変つたところがなかつたことが認められる。(なお、被告人が隠岐に手錠をかけたまま取調に当つたことは被告人および同人のいずれの供述よりするも明かであるが、右証人近藤寛および神谷利正の各供述記載により肯認されるとおり、当時は身柄を拘束している被疑者の取調に当つては逃亡防止などのため片手錠を使用することが職務上要請されていたものであつて被告人が隠岐の取調に当つて両手錠を使用したとすれば格別、片手錠で取調べたことをもつて、被告人に自白強制の意図があつたとみることはできない。)

(6)  取調室の状況をみるに、当裁判所の検証調書によれば、被告人が取調に使用した市警本部別館階下宿直室(本件証拠中には休憩室と呼んでいるのもある。)は右別館玄関を入つてすぐ右手に位置し、畳敷六畳の部屋で、南向きに窓(一間)があつて、中庭兼通路に面している。中庭の向うには二階建の市警本部本館(当時)が建つている。そうして、廊下からの入口は二重になつているが、その二つのドアを閉め、右窓を締めた場合においても、部屋の内部で大声を上げれば、廊下のドア前附近に立つても、中庭の窓下に立つても、その言葉の意味内容まで明瞭に聞きとることができ、また、右本館の向い合つた二階の窓からは部屋における人の立居がはつきり望見されることが明かである。又右中庭兼通路は、警察職員以外の外部の人も自由に通行していたのである。このような状況において隠岐尚一の供述するような暴行を人に知れないように行うのは、不可能ではないとしても、非常に困難であるといえる。

(7)  最後に、隠岐の被告人に対する十一月十日付供述調書の記載内容を仔細に検討するも、同人が強制されて供述したと見られる節は一箇所も発見できないばかりでなく、かえつて、同人は「松川事件に対する私の感想はどうかとの事ですが、私はビラの内容に同感であります。そのビラそのものは何も不当なものでないと私は信じております。」(第十一項)とその信念を憶することなく主張しており、強制によつて右供述調書が作成されたとは思われない。このことは、同人の検察官に対する同月十二日付供述調書についてみても同様であり(第七項および第九項)、同月十四日付供述調書において、被告人に自供した心境について同人は、「私としてはあたり前のことをしたのだから平気だと云う気持で一切を話したのです。」(第一項)と述べていることによつてもやはり肯認できるのである。

第五、結論

以上種々検討して来たところによれば、隠岐尚一は現在名誉毀損被告事件で公判審理中で、他の共同被告人は総て捜査の段階でも否認し通していたのに隠岐だけ被告人に向つて自白して居り、この自白を証拠にされるのは、非常な不利益なため被告人を告訴して抗争しているものと認めざるを得ないと解する外はなく、本件公訴事実の存在を積極的に肯定する証拠については、その信憑性を低める諸事情が多く、これを否定する証拠については、その信憑性を高める諸事情があり、結局本件公訴事実を認めるに足りる証拠は十分に具備して居らず、本件は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三百三十六条後段により被告人に無罪の言渡をすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 赤間鎮雄 石川正夫 豊島利夫)

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